プロポーション石部 @歴史の轟 
石部の「らしさ」
まちの未来図の描き方はさまざまですが、大切なのは石部らしさを失わないこと。
未来は昨日、今日の積み重ねによってひらかれるものです。
だからこそ、ときおり昔を振り返り、まちの進むべき進路を確認したいものです。


 石部は古くから伊勢時への街道として多くの人の往来がありました。

 戦国時代の末期には関が原の闘いで勝利をおさめ、天下人となった徳川家康が早々に交通制度の整備に着手。五街道の中でもとりわけ東海道は大阪への進軍には欠かせないルートであったため、整備にかなりの力が注がれ石部宿には幕府直轄の本陣が二つ設置されました。

 「京立ち石部宿まり」と言われるように、京都を立った人々が歩いて一日を終えようとしたところが石部宿に当りました。

 参勤交替の大名から町人まで、多くの旅人がここで一日の旅の疲れを癒していたのです。

 最盛期には216軒の商家や62軒旅篭が軒を連ね、まちには大いに賑わいを見せました。

 ともすれば遠く過ぎ去った町の風景はなかなか偲び難いものですが、石部町の場合、過去にタイムトリップできるステキな手がかりがあります。

 それは、安藤広重の「東海道五十三次」です。

 広重(1797〜1858)は、独自の作風で庶民に親しまれた江戸末期の浮世絵師。37歳で、「東海道五十三次」を発表する前年に、葛飾北斎が73歳で「富嶽三十六景」を発表しましたが、たちまち北斎の人気をさらいました。

 石部宿は、江戸日本橋から京都三条大橋間に点在した五十三次の51番目の宿場町。広重はここで田楽茶屋、宿の見付(見張台)を描いています。

 これらの作品を目前にかると、かつての石部宿が頭の中に描かれてくるのではないでしょうか。

 その昔、広重の作品は時代を越えて愛され、今も人々に当時の様子を伝え、想像力を欠きたててくれます。

 広重の作品が絶賛されるのは、絵師の才能はもちろん、

 石部宿の活気も作品を輝かせた理由の一つではないでしょうか。長い間、培われた石部のエネルギー。

 今もはじけるような「命」が地からあふれているようです。そんなまちの魅力を時折振り返ってみると、人の心もまちも元気づくかもしれません。


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(出展=石部町発行「1998町勢要覧」より転記)

東海道五十三次(広重)




          初版=2000.6.10